兵庫教育大学 総合学習内容論1-Critical Thinking クリティカルシンキング
    担当 成田 滋 naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp
                 2001年6月14日



以下は、2001年6月11日に総合学習内容論の講義を担当してくださった教育基礎の宮元博章氏の話題提供に対する、受講生からの質問とそれに対する宮元氏のコメントです。長文なのでhtml化します。なお、さらにコメントしたい方は大歓迎です。宮元博章氏のアドレスは<miyahiro@edu.hyogo-u.ac.jp>です。(原稿編集 成田 滋) 





---- 成田 -------------------------------------
>
> 宮元先生に読んでいただきたい内容のコメントです。
> 彼のメールアドレスは以下です。転送してみて
> ください。きっと返事がきます。そうしたら、それを
> ここで掲載してください。彼の意見を聞きたい一人 です。」

---- 宮元 -------------------------------------
私が直接書き込めたらその方がよいかなと思って、成田先生のページを拝見したのですが、このフォーラムについては非公開のようですので、レスを鈴木さんにメールを託す形でお伝えしたいと思います。昨日メールをいただいて、レスを書いていたら、あまりにも膨大な量の文章になり、フォーラム(掲示板での議論)向きではないと思いましたので、「すべて」に対してリプライするのはやめて、要点だけに切りつめようと思いました。といっても結局、膨大な量になってしましました。

私が疑問に対してあたかも「正当な答えを授ける」かのような印象を与えるのは本意ではありませんし、そのような答えを期待されても困りますので、あくまで、議論の材料を提供するというスタンスにしたいと思っています。皆さんもそういうものとして受け取ってください。

実は、ここで議論になっている問題に関連したことは、Webページのレジュメ(http://www.ceser.hyogo-u.ac.jp/naritas/syllabus2000/critical_think/critical.html)に、「★クリティカル・シンキングに対する反発と誤解に対して」という項目が挙がっていると思いますが、一応トピックとして用意はしてあったのですが、時間の都合もあって、今回は話しませんでした。また、拙訳の『クリティカルシンキング《実践篇》』をお持ちの方がいましたら、10章の後にある「訳者からのあとがき」を読んでいただけましたら、この問題に関連したことが多少書いてありますので、ご参照ください。拙著『クリティカル進化論』では、3章の後半で、「要するにマインドフル(手抜きしながらのクリティカルシンキング)」、「ちょっとクリシン」、「あっからクリシン」という形で関連する問題を扱っています。

鈴木さんの発言から(以下、鈴木と略す)、

> みんながみんなクリティカルシンキングするようになったとき
> 我々教育現場ですべての教諭が、すべての生徒がクリティカル
> シンキングするすべての事柄を処理した場合
> 教えられる事柄のすべてを、クリティカルシンキングていたのでは、
> 又、生徒の側からしても、教えられる事柄のすべてを、
> クリティカルシンキングていたのでは、授業は進まず、
> かえって今の現状の学力低下が見込まれます。


鈴木さんは「すべて」という言葉をよく使われますね。極端なケースを想定することは、新しい視点を導入する契機になったり、また議論で扱われている事柄の輪郭を浮き彫りにするために重要です。つまり、一概にクリティカルシンキング万歳というのは、クリティカルではないわけで、どういう状況ではとても必要であり、どういう状況では問題もあるのかを探るために、一度、極端なケースをぶつけることで、輪郭を探っていくのは有効な論法の一つです。

鈴木さんも、
> しかし、私の言いたかったことは、クリティカルな考え方が
> そのまま、どの場面でも使えるかについて、場面場面で、
> クリティカルに考えてみたのです。

と書いておられるように、議論を進めるためにあえてやっておられるのだろうと思います。ただし、その点を忘れて、そのまま極端なケースを押し進めると、議論が地に足のついたものではなくなりますので、注意も必要です。「すべて」の人が人生における「すべて」のことについてクリティカルに考える必要はないし、私もそれを推奨しようとは思いません。クリティカルな考え方が必要な時に、しようと思えばできる。そういうクリティカルシンキングの態度と知的ツールとしてのスキルの育成が大事だと思っているわけです。

ただ、このためには、「必要なとき」とは何かを認識できるための、判断力というのが必要なわけで、私は広義のクリティカルシンキングはこのスキルも含むものとして考えています。クリティカルシンキングを適切な文脈で発動させるための"メタ・クリティカルシンキング"と呼んでいます。

それから、世の中の知識とか人間の判断力とか、考え方についての「認識論的背景」として、「疑いうるもの」としての余地を常に残しておきながら、同時に、物事の「確からしさ」、「正しさ」、「良さ」には程度の違いがあり、きわめて怪しいものもあれば、かなり確からしいものもあるという認識が重要だと思います。これが実際的(プラグマティック)で健全な懐疑心であります。話しが抽象的になりすぎましたので、これで止めておきます。

---- 鈴木 -------------------------------------
>  それは、我々教育現場ですべての教諭が、すべての生徒が
> クリティカルシンキングですべての事柄を処理した場合、
> 私は授業する自信はありません。私達、教員は生徒に教えるべき
> 教科の教えるプロであって、その教科の単元単元の専門家でなく
> 又、教えている内容のすべてが、クリティカルシンキング
> の上で正しい内容かどうか判断しきれないからです。

「教師は常に正しいことを知っていなければならない」「教師は間違ったことを教えてはならない」(少なくともそうあるべきだ)という信念は、既に小中学校のレベルにおいても世の中の実情に合わなくなってきているのではないかと思います。それならば、逆に、「開き直り」といってもよいかもしれませんが、数年後には役に立たなくなっているかもしれない知識(もちろん、すべての知識がそうだというわけではありません)を教える者として、彼らに何をしてあげられるかを考える方向も見据えておく必要があるのではないでしょうか。もちろん、どの知識が役に立たなくなるかは、現時点では分からないことを前提としてです。この辺の事情は教師だけの問題ではないのです。我々研究者もそうですし、医療や福祉その他のさまざまな分野の専門家もそうだと思うのです。

---- 鈴木 -------------------------------------
> 又、生徒の側からしても、教えられる事柄のすべてを、
> クリティカルシンキングていたのでは、授業は進まず、
> かえって今の現状の学力低下が見込まれます。子供は、
> ある程度素直でまっすぐ物事を聞き入れることで、知識を
> 吸収し学力が付くのでしょう。

「ある程度」を、「どのような物事について、どの程度」とするかが問題なのでしょうね。ただ、ここでいう「学力」とは何でしょうか?知識を吸収したこと=学力ならそれでよいのですけど。また、後で出てくる話と関連しますが、知識の吸収にしても、子どもはまっすぐ素直に水を吸うスポンジではありません。主体的に知識を体系的に意味づけ、深い認知処理を行う方が「単純な知識吸収」(記憶)も効率的に進むという心理学的知見も存在します。

--- 鈴木 -------------------------------------
> もっと単純に言えば、教えてあげたことをいちいち
> クリティカルシンキングする子供は、可愛くありませんよね。

可愛いか、可愛くないか、あるいは、どの程度までは「可愛い」か、どの程度より先は「可愛くないか」は個人の感覚に属しますので、あまり、一般化しない方が……
ところで、鈴木さんにとって「可愛い子ども」とはどういう子どもか、「可愛くない子どもとはどういう子どもか」を考え、言葉にしてみることで、ご自身の「子供観」「教育観」の一端がかいま見えると思います。私は教師にとってのクリティカルシンキングの必要性がこの辺にあると思っています。たとえば、具体的にはどのようなことに対して、どのようにクリティカルシンキングする子どもを想定しておられるのでしょうか?たとえば、後で出てくるような、公式の意味を質問してくるような生徒のことですか?

私個人の感覚で言えば、小中学校で教えるような比較的単純な知識内容について、いちいちクリティカルシンキングできるような子どもがいたとしたら、可愛いというより、むしろ尊敬すると思います。この場合の「クリティカルシンキングする」子とは、比較的狭義のクリティカルシンキングの意味で、「本当かどうかを疑うこと」、「教師の説明の不十分な点や矛盾点を付いてくること」、「法則等に当てはまらないような反例を考えること」、そして、「それは何故そうなのか? その意味は何か」という意味づけと、理由を問うようなことを想定しています。

「可愛くない」とすれば、その子が敵意と軽蔑をもって(と教師の目には映る)教師に突っかかってくる場合、あるいは、その子が質問するせいでクラスの授業が円滑に進まないということでしょう。あるいは、校則や掃除などのルーチンワークに疑義を発する子は確かにやりにくいですね……。しかし、疑う心は認めた上で、多数の子どもを教える教師として、円滑に授業や学級運営を進めていくには、どうすればよいかという、具体的な行動上の、また方法論上の問題を、“別の次元の問題として”考えていくでしょう。

---- 鈴木 -------------------------------------
> 上記の考え方こそもクリティカルシンキングなん
> じゃないでしょうか。

そうですね。クリティカルシンキングを疑うこともクリティカルシンキングです。クリティカルシンキングも「考え方」の一つであって、当然万能ではありませんが、重要な特徴は自らを疑うことをその思考の体系の中に含んでいる点です。
ただし、(これは鈴木さんは十分に分かっておられるのですが、一応、他の人にも向けて述べておきたいので)講義でも述べたのですが、「疑う」とか「批判する」というのは、うまく行かないケースや状況を捉えて「だからこれはダメなんだ」とバッサリ切り捨てることではなく、うまく適用できる場合とできない場合などの条件を探っていくことにあります。

---- 鈴木 -------------------------------------
> 例えば、数学の公式です。高等学校において、公式は
> まさに暗記して、疑いもなくその公式を利用して問題を
> 解く必要があります。公式の意味や何故などという疑問は、
> 大学レベルで学習する内容じゃないでしょうか?

鈴木さんのご発言の中で、私が少々気になっているのは、先ほどの
> 可愛くありませんよね。
もそうなのですが、ご自身の経験や直感を、一般化する傾向がやや見えることです。このような点こそ、多くの現職の先生方がおられる(自分の経験もあり、また、他の先生のケースも多く見聞きしておられると思いますので)このような議論の場で、積極的に討論していただきたいのです。

本当に、これは「疑いもなく…必要」なのでしょうか?公式の意味を問うなんてことは、高校までの生徒には必要ないか、かえって学習にとって害があるのでしょうか?公式の意味を問わせるような教育で成功している事例はありませんか?
すべての公式がどうかは分かりませんが、公式の意味を問うような方向付けをする方がかえって効率的で、入試問題を解く上でも応用性の効く学習につながる可能性はないのでしょうか?このテーマについては、市川伸一氏の『勉強法が変わる本−−心理学からのアドバイス』(岩波ジュニア新書)などを参照してみてください。

---- 鈴木 -------------------------------------
> 私は、生徒に公式の意味を質問しても、公式の意味など
> 答えることができません。

これは、教師がそのような公式の意味を考えるような働きかけをせず、また、公式の意味を教えないなら、生徒が答えられないのは当然なので、「だから必要ない」というのは、論の方向が逆のように思われます。もちろん、ある種の公式や手続きについては、その意味を理解するには高度な学問的背景が必要なので初学者には無理というケースもあるでしょうし、また、生徒のレベルや関心にもよりますので、一概に、どうするのが望ましいかは決められません。

また、学習の初期段階においては、まず公式や手続きの意味を問うよりも使って慣れてみる、−−取りあえず答えが出ることを確かめる方がよい場合もあります(これについても『勉強法が変わる本』に書かれていますし、我々がパソコンなどを習う場合でも当てはまります)が、それでも、公式や操作の意味を問おうとする姿勢の重要性を伝えることは意味があるのではないでしょうか?たとえば、特定の公式などは、取りあえず「今の段階では約束として覚えておいてもらうしかない」としても、それならば、その旨を教師が伝えることはできるはずです。

私はほとんど文系の女子大生に、心理学を学ぶために必須の統計を教えていますが、できるだけ、「なぜ、このような数値を知りたいのか(目的)」「何故これを知ると便利なのか(効用)」「どうしてこのような式になるのか(仕組み)」「これが分かると何がうれしいのか」「何が分かるのか? 逆に何は分からないので注意が必要か」といった意味を伝えようとしますし、また、初学者の段階では理解が難しいので、取りあえず「理由は問わず」そういう約束事として覚えておいてほしいことについては、そのように伝えます。ですから、「本来は」何故を問うことが重要だという姿勢はくずしません。

実質的には同じことと映るかもしれませんが、教師が、「何故を問う必要はない、黙って覚えればよいのだ」という姿勢であるか、「本当は意味を知ることは大切だが、取りあえず今の段階では、問わないでおく」という姿勢であるかで、学生の知識の受け取り方も違ってくるのではないでしょうか。学校において、学生達は単に知識を学ぶだけではなく、直接教えてはいない知識の背後にある、「暗黙の知識観」も学んでいるはずだと私は考えています。つまり、教師の「知に対する姿勢」が学生のクリティカルシンキングの態度の習得に影響を与えるのではないかと思っているわけです。

このあたりについては、教育社会学者の苅谷剛彦氏の書いた『学校ってなんだろう』(講談社)という本をオススメしておきます。中学生向けに書かれた本ですが、教師に読んでもらいたい本です。

---- 鈴木 -------------------------------------
> しかし、世界3大宗教にしても、その他の宗教にしても、
> 先ず、その宗教に帰依し、信ずることから始まります。
> 宗教内容を疑って、信仰や布教などということは出来ないのです。
> 神の存在などということは、不信仰者にとって、
> あいまい過ぎます。クリティカルに考えられる事柄なので
> しょうか?クリティカルに考えることは正しいと思うけれども、
> 時と場合によっては、可愛くないし、信仰で言う助からない?
> 姿のようにも見えます。

これは、話しの筋から言うと脇道に属することだと思いますが、宗教の問題は、クリティカルシンキングのある種の試金石だと思いますので、試しに考えてみます。鈴木さんが学習の話しと宗教の話しを並べているということは両者の間の共通点に着目しているということでしょうが、
・学習においては、ある種の知識は疑わずに受け入れなければ、実質的に学習が進まない。という論と、
・宗教においては、その教義をまるごと信じないことには、そもそも信仰にならない(救われない)。
という論ですね。後者の場合、信仰できないのならできなくてもかまわないのでしょうから、どうも話が違うように思いますが。それはそれとして、本当なのでしょうか?教義の少なくとも一部を疑いながら信仰することはありえないと思いますか?それは「信仰」の定義にもよりますね。信仰の定義に「一切疑わないこと」というのが含まれるならその定義のままですが、それでは循環論になって議論にはなりませんね……。

信仰と知的探求の関係はそれほど単純なものではないだろうと、私は思っています。あえて極端な例を出してみますと、敬虔なクリスチャンにして、なおかつ、進化論を信用している人は矛盾していると思いますか?あるいは、信仰の厚い仏教徒で、仏教の教学について分析的・批判的に研究する宗教学者の信仰は偽物だと思いますか?

クリティカルに考えるというのは、単に存在の有無とか、あることが「事実か否か」という問いに白黒つけるというレベルに限定されることではありません。問いには、さまざまな次元があります。科学的な観点から事実について問うことが問題にされているのか、より価値的な命題として、その信仰が個人や社会に何をもたらすのかが問題にされているのか? あるいは、現実的に誰がどのような利害を被っているのか。問題の次元が異なれば、考え方や、答えもまた違ってきます。

人々の間で交わされる多くの議論がかみ合わずに、生産性のないものに堕してしまうのは、いろいろな人がいろいろ異なる次元の「問い」を発しているのに、それらを混同して、全体として「良いか悪いか」、「賛成か反対か」「敵か味方か」という2分法に帰着させようとするからではないかと思っています(これはオウム真理教にまつわる諸議論にも当てはまります)。
このような問いの質や、次元(何が問題で、何が目標か)を見定めて議論をすることも「クリティカルシンキング」の重要な原則の一つだろうと考えています。

--- 中道 -------------------------。
> クリティカルシンキングは、「ほんとうかな?」
> 「それでいいのかな?」と考えてみること
> ではないでしょうか。小学生の低学年や中学年
> には、まずいろいろな知識を学んでほしいですが、
> 高学年から宮元先生も言われていたようにクリテ
> ィカルシンキングしても言いように思います。

「いつから」という時期についてはあまりリジッドに考えないでください。私が「小学校高学年ぐらいからか」と言ったのは、どちらかというと、既に与えられてきた知識や枠組みを「疑う」というレベルのクリティカルシンキングなのですが、一口にクリティカルシンキングといっても、さまざまな要素やレベルがあります。幼稚園や低学年でも可能なことはあります。たとえば、「何か言いたいことがあったら、きちんと言わなければ人には伝わらない」こと、「事実を確かめる」こと、「物事にの結果には理由(原因)があることを認識する」こと、「(ピアジェ課題のようですが)他人から見たものと自分から見たものは同じとは限らない」こと、などのような課題ならば、比較的小さい頃から導入することも可能だと思います。これもクリティカルシンキングの要素なのです。

大変長々と書きました。最後に鈴木さんに対してということではなく、私からフォーラムの皆さんへの議題のネタふりです。私は「総合的な学習の時間」のポジティブな面として、これまでの "いわゆる" 伝統的な教授学習型の授業のみではなく(これを完全に否定しているわけではなく、この種の授業はこの種の授業として)、それに加えて、「既存の知識を疑い、自分で知識を探っていってもよい、あるいは、むしろそれが推奨される」タイプの授業を提供することだと思っているのですが、「総合学習系講座」に属する皆さんは総合的な学習について、実際のところ、どのような立場でいるのでしょうか?理想と現実のギャップはあるかと思いますが。

Hiroaki MIYAMOTO
Hyogo University of Teacher Education
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