個性のある学校作りと教師の力量形成に個別の指導計画は役立つ

 成田 滋 兵庫教育大学
 naritas@hyogo-u.ac.jp

 | 成田研究室ページ1 | 個別障害者教育法パートB(PDFファイル-423K)


 目 次

 I. はじめに
 II. 個別の指導計画
 III. 個性のある学校作りと教師の力量形成
 IV. おわりに



I. はじめに

時代の変化が激しい今日、これからの学校改革にはマクロとミクロの観点からの見方が必要である。明治以来、学校は営々としてあまり変わらないといわれる。その理由の一つは、明治から今日まで官尊民卑の思想が教育界に続いているからである。「官」の態度とは、「民」に対抗するものという思考法がある。情報開示もしかり、いじめもしかり、重大な「民」の問題が起こると、我が国の教育委員会、「官」はこれをどう思考しどう始末するかわからず、一種の痴呆状態になる。その理由は、「民」を納得させるような思考法が伝統に存在しないか、きわめて乏しいことによる。

確かに戦前と戦後では教育内容が大きく変わった。この変化の要因は、占領軍の政策という外圧によるものが大きかった。そして50年以上たった今日、学校を変える環境が生まれている。学校が自主性や自律性を持つこと、学校が自己責任で運営しようということ、学校の裁量を高め校長の役割を強化しようという提言が1998年9月に中央教育審議会より出されている。この答申は、「今後の地方教育行政の在り方について」ど題するものである。 50年間いわば眠っていた学校を呼び覚ます黒船のようなインパクトを持つと考えられる。

教育の改革は、学校が変わることで大きく前進する。答申は、これまでの学校運営のあり方を反省し、学校の自主性・自律性の確立のために学校裁量権限の拡大の必要性を指摘している。その答申の中で注目すべきは、『子どもの個性を伸ばし、地域に開かれた特色ある学校づくりを実現するためには、校長が、自らの教育理念や教育方針に基づき、各学校において地域の状況等に応じて、特色ある教育課程を編成するなど自主的・自律的な学校運営を行うことが必要である。』として、校長の役割を重視している点である。

養護学校などは、2002年から新しい指導要領の導入やネットワークの接続を控えて、新しい学校経営を要求されている。特に個別の指導計画を個々の生徒に作成することにより、教育成果と指導責任を重視する「アカウンタビリティ」の考え方が広まると考えられる。アカウンタビリティの考え方は、以下のように、学校の自主性や自律性、そしてそれに伴う自己責任の原則を意味することである。

1) 「学校の自主性・自律性の確立」
今日の学校は、教育委員会や学校の職員会議、組合、校長の権限が錯綜し、一体だれがどのような責任をとっているのかがあまり見えてこない。校長は教育委員会の伺いを立て、職員会議の決定に振り回され、いわば両者の板ばさみになっている。それに校長は任期が短く、退職前とあるので思い切った学校運営をしたがらない傾向がある。つつがなく問題を起こさないで退職したいと願っている。このような痴呆状態のような校長に学校改革を期待するのは酷である。学校の自主性と自律性は校長を頂点とする決定の仕組みを確立することである。

しかし、学校はそれにふさわしい責任を果たしていない。今、学校現場は、受験競争・非行・暴力・いじめ・不登校など多くの難問を抱え、出口の見えない袋小路に追いつめられている。何年も前から改革の必要性を指摘されながら、学校は小手先の対応でごまかしてきた。そのツケが今まわっている。誰もが、我が子を荒れた学校に通わせたくはない、できるだけより良い教育を受け健やかに成長させたいと望むが、現実には何もできない無力感の中でいらだちだけを感じている。そのような実情を反映して、1997年度の教職員で休職した者は4,141名となっている。そのうち精神性疾患で休職しているのは、1,609名とある。この数は、過去最高だった前年度に比べ、16.2%の上昇だという。今の学校には、組織に適応できない教職員が増えている。

2) 「学校の自己責任の確立」
学校運営では、許可・承認・届け出・報告等について詳細に教育委員会の関与を規定されており、その自主性を制約されている。どの学校も、大きな権限を持たされず、自分で判断できず、そのため責任のない組織なのである。
 学校の自己責任とは、教育の信託を受けた学校が親と子どもが望む教育サービスを提供できるかということである。そのために、指導能力を主として管理者がどの程度有しているかが大事である。学校は自己責任において学校を運営するのであるから、当然学校の特色が生まれねばならない。学校独自のカラーを打ち出し、地域社会にも親にも誇れる学校教育活動をすべきである。

いかなる組織でも、最高意志決定者が必要である。学校は多様なメンバーの集まりであるから、なんらかの意思決定のルールが必要である。ただ、学校などの組織の運営は、いくら話し合っても結論がでないことが多い。これが最終的な決断を下す者を会則で定める理由である。このことは学校運営においても同様のはずであるが、これまでの学校は、最高意志決定者が校長なのか職員会議なのか教育委員会なのか、その存在が曖昧になっていた。つまり責任が曖昧な組織であった。このような組織では、学校の自己責任はまとうできない。

3) 「学校の裁量権の拡大と校長の役割」
学校の裁量権の拡大とは、校長の役割の拡大ということである。最高意志決定者である校長が先頭に立って、学校の改革や改善にリーダーシップを発揮することが求められている。

最高意志決定者という耳慣れない言葉の類は、アメリカの企業ではしばしば使われている。いわゆるアメリカ企業におけるCEO(Chief Executive Officer =最高経営責任者)は、大きな権限と十分な報酬を与えられている。その反面、経営の過失に対し場合によっては株主代表訴訟によって莫大な賠償金を請求される厳しい立場にある。権限と責任は両輪を成している。中央教育審議会の答申は、慎重な言い回しではあるが、校長に最高意志決定者として権限を与えている。当然、校長は学校運営に対し相応の責任を負う立場になる。権限を持つ者が責任を負うというはっきりした図式ができあがる。

危惧されるのは、校長にふさわしい人物を登用できるかという点である。日教組の中央執行委員長は、次のように指摘している。「学校長などに適材を確保する必要性はあるとしても、問題は、日本の学校における学校長のリーダーシップにある。どちらかといえば日本の管埋職は、管理・運営に関しては重視するものの、教育的・文化的リーダーシップに乏しい。答申内容にとどまることなく、スクールリーダーとしての資質の向上を求めたい。また、管理職人事に関して、その透明化をはかることは重要であり、人事行政の見直しを強く求める。」

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II. 個別の指導計画

2002年から導入される改訂指導要領では、生徒一人ひとりの指導計画が作られる。よりきめの細かい計画をたてて、指導の成果をあげようとする意図がある。指導計画作りの総責任者は校長となる。校長の権限で、個々の生徒に対して「個別の指導計画委員会」のようなものが校内に設置される。この委員会には、親の参加が義務付けられ、生徒の教育ニーズによっては、教師以外の専門性を有する人的資源の参加も考えられる。教師の恣意的な判断で委員会の構成や運営は許されない。
 個別の指導計画は、校長の権限で実施され評価される。校長は、指導計画から評価までの過程を十分に熟知し、子どもの成長にとってもっともふさわしい教育が実施されるような指導性を発揮せねばならない。

1) 教育サービスの発想の転換
学校教育はサービスであるという考え方をさいようすべき時代がきている。これまで、公教育に関しては、サービスを受ける者は選択の余地がなかった。つまり、「なにかをやってあげましょう」という看板を掲げれば消費者である親は学校にきた。義務教育のせいもあるが、親は教育の種類や質を選ぶことができなかった。サービスは、選べることが大事である。そのことによってサービスの提供者は、色々な工夫をして消費者を獲得できる。学校教育も市場原理を導入し、教育サービスの向上につとめる時期がきている。

これからは、学校は親に対して、「なにを望みますか」ということにもっと敏感であるべきである。それによって親が主張し選べる「教育商品」を吟味するのである。これからの「教育商品」の最たるものは個別の指導計画となる。

2) サービスと企業の例から
教育商品を語るとき、参考になるのは企業の商品についての考え方である。その例をトヨタとくろねこヤマトを参考にしてみる。

「トヨタ」の場合は、この数年の供給過剰による生産計画の基本を変更することを余儀なくされている。そこで消費者の好みに合致した車を生産している。消費者の嗜好の変化を取り入れた生産方式を 「カスタマーイン」と呼んでいる。これは消費者の好みと希望価格を考慮してオプションを選択できるようにしたものである。さらに一日で車検手続きができるようにして、車検費用と日数を減らし消費者をとらえようとしている。
 一方、「くろねこヤマト」の場合は、「お客様のわがままをききます」とか、「いつでも配達します」というように、徹底して利用者本位のサービスに徹底していることである。企業はこのように消費者がどのようなサービスを望んでいるかを調べ、消費者が選べる商品を用意することで客をつかんでいる。このような努力なしには、企業として生き残れないことを知っている。教育はこの企業精神から何を学ぶかである。

3) 個別の指導計画とは 
個別の指導計画は、単なるフォームや指導案ではない。教師の中には、個別の指導計画は自分で作って実施していると主張する者もいる。しかし、こうした個別の教師の手による指導計画は、本来個別指導計画が包含する計画設計の大綱にはそぐわないものといわねばならない。個別の指導計画の本質は、個々の教師が指導する生徒一人一人の計画を作るというものではない。その計画は次のような要件を満たしているかである。

(1) 親が望む教育サービスである
個別の指導計画には親の希望や意見が反映されねばならない。教師が勝手に一人で作るような性質のものではないのである。親の教育ニーズに耳を傾け、計画作りで話し合い、指導した後の成果や計画の変更などのための評価を親を交えて行うという過程が重要である。指導計画は企業でいう商品でありサービスである。つまり消費者である親の要望が反映され、親が選択できるものである。

(2) 共同で作成する
個別の指導計画は、生徒のニーズにそって指導する複数の教師と親が共同で作るものである。生徒の指導には部や教科を超えて、生徒のニーズに合う最も相応しい人的な資源を活用することになる。しかして、指導計画もそうした教師たちが参加して作成することになる。これまでのように、計画作りの過程により、担任一人が一人の生徒を「囲い込んだり」や「占有すること」がなくなる。複数の教師が指導にかかわることによって、教師の専門性が活かせることになる。いわば、初等部も高等部の教師も一緒に指導することになる。当然、指導の形態は、一対一や集団の指導となる。

(3) 教育の成果を重視される
個別の指導計画は、どのような成果をあげたかという評価を伴う。計画の変更や修正は、この成果との対比において行われる。極端にいえば、どのような計画を作っても成果が上がらなければなにもならないということになる。評価の結果は、親や教育委員会へ報告され、その後の予定を明確にしておく必要がある。

(4) 目標や目的は測定しうること
個別の指導計画は、年間や月間目標が細かく設定される。なにをどのように指導し、どのような成果を期待するかが謳われる。目標の設定は応用行動分析の手法を用いて、測定しうるような表記を使うことが義務付けられる。曖昧な目標行動の設定は許されない。

(5) 個別の指導計画とコーディネータ
個別の指導計画の策定や評価には、個々の生徒についてコーディネータが決められる。コーディネータは、校長や担当教師がなる場合もあろう。コーディネータの役割は広範囲にわたる。親との連絡、委員の構成、計画づくりと委員会の召集、評価など全般にわたる。コーディネータは個々の個々の生徒について担当が決められる。評価手続きを親に告知することもコーディネータの役割となる。

(6) 生徒情報はデータベース化される
生徒の個別の指導計画や実施状況、評価の情報はデジタル化されて、蓄積され共有されねばならない。情報は死蔵されないことが重要である。もし、指導案が個々の教師で作られるならば、情報の死蔵は容易に起こり得る。他の教師はその生徒の情報にアクセスすることが困難であるからである。個別の指導計画は本来、関係者の間で共有され、参照されるということが原則であるから当然データベース化され、定期的に更新されたり修正されることが義務付けられるべきものである。コーディネータは情報の更新や管理に責任を負うことになる。個別の指導計画に関する情報は、学校内はもちろん、他の学校との共有も視野に入れなければならない。教師は、計画を策定するにあたり、関連する資料を検索し、活用するという作業をする上で、他の学校の資料を参照するのは有意義だからである。

(7) 情報の共有とテクノロジーの利用
個別の指導計画が徹底されるとき、それを実質的に有効なものにするには、ネットワークなどのテクノロジーの応用が必然となる。情報の共有にネットワークとコンピュータ端末は必須の道具となる。教育委員会にはネットワークの管理者がおり、各学校には校内ネットワークのコーディネータのような者が必要となる。校内ネットワークは教職員だけが利用できるシステムとなる。教職員間のコミュニケーションの手段は、電子メールと電子掲示板となる。さらに、個別の指導計画に関する情報はいつでも利用できるように文書ファイルのサーバーに貯蔵される。アクセスにはパスワードがいることは言うまでもない。

ネットワーク上のコミュニケーションは日本人に適した手段であるといわれる。つまり、日本人の場合、面と面とのコミュニケーションは、ときに軋轢を生んだり、十分意図を伝えれないニュアンスがあったりする。しかし、ネットワーク上の対話は、時間差や非同期といった要素が入り、一対一での言葉での緊張を緩和することが多い。直接伝えにくいことでも、文字による手段では、ゆっくり考えて論理的に伝えることも可能となる。しかも、日本人には多くの人に前で積極的に発言することは、「でしゃばり」とか、「かっこつけやがって」などという出る杭を打つ文化がある。したがって、会議などの人前ではなるべく発言を控えるということになる。

(8) 個別の指導計画と評価
個別の指導計画と評価は、車の両輪のような役割を果たす。評価の作業は委員会でなされるのであるから、生徒の指導に関する多角的な意見がでてくる。この評価作業により、教師の評価力量が高まることが期待される。これまでのように、個々の教師が、指導評価を一人で考え悩むということは少なくなる。さらに評価の作業は、親と教師のコミュニケーションが深まる機会にもなる。

個別の指導計画の評価には、指導の一貫性と継続性を保つという機能もある。教師の転出や休職などによる指導の中止という事態は絶えず存在するのであるから、評価を複数の者が行い、情報を共有しておくことは重要なことである。指導計画作りと評価を共同の作業することにより、個人の恣意的な評価を避け、一貫性を継続性を保持することができる。またこの作業は、評価の客観性をある程度、保証することにもつながる。

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III. 個性のある学校作りと教師の力量形成

1) スペッシャリストとしての教師
個別の指導計画による生徒への対応は、それぞれの教師が持つ専門性を一人一人の生徒に生かすことが前提である。そのため、教師はジェネラリストではなく、スペッシャリストとしての教師であることが期待される。教師は専門とする領域をいろいろな生徒に教えることになる。例えば、個別の指導計画によってコンピュータを使った学習を必要とする生徒には、メディアコーディネータが指導する。動作法を必要とする生徒には、動作法のリーダー資格を持つ教師が担当する。また、言語指導が必要な生徒には、言語治療士がつくというように、生徒の教育ニーズに応じて指導スケジュールは調整される。終日、一人の教師が一人の生徒をすべての領域にわたって指導するという現在の体制はありえない。その意味で教師の力量形成は、専門性があるかどうかを問うことである。

2) ネットワークとコミュニティ
職員会議などでは、特定の者が発言することが多いといわれる。そのために意志決定が偏ったり、新しい発想が生まれにくいという傾向がある。しかし、ネットワーク上では声なき声が重要な発言として取り上げられる。発言しなかった教師の声が語られ、異なった主張が皆に読まれる。校長も平の教職員も同じ立場で語ることができるのは、ネットワークの効用といえる。ネットワークが新しいコミュニティを造ると呼ばれる所以である。

3) 教師の力量形成と個別の指導計画
養護学校は、一種の教育企業と考えれば、当然特色のある教育商品を生み出すことが期待される。そのためには個々の教師のアイディアが尊重され、その意見が商品の開発に反映されねばならない。どのような小さなアイディアでも良いのである。アイディアの工夫にあたっては、個々の教師の足をひっぱらないことが大事である。
 教師のアイディアは、親の希望や要望を取り入れて個別の指導計画に具体化されねばならない。かくして指導計画は、教育商品となる。この商品は、消費者である親の意見を採り入れながら改良されていかねばならない。教師の力量形成と指導計画作りは切り離すことはできない。

個性のある教育商品が作られる学校には、個性のある教職員集団が必要である。そのためには、教師は決して等質な集団でないこと、それぞれ専門性があること、教育になんらかのビッジョンを持っていることが、学校の個性をつくり上げるうえでの前提である。学校の個性とは文化である。文化とは、どの学校にも共通するものではなく、地域や親や生徒の特徴を反映したものである。この学校文化には普遍性を要求する必要はない。「今、ここで」生きる子どもたちにとって大事な価値を追求する営みが学校に要求されている。

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IV. おわりに

個性のある学校作りと教師の力量形成の先頭に立つのは校長である。教師の力量形成と個別の指導計画の導入において、校長は単なる管理者ではなく、スクールリーダーとしてCEOのような新しいスタイルの校長が求められている。それは最高経営責任者としての校長である。その校長のリーダーシップのもと、教職員の一致協力した特色ある学校づくりこそが、学校改革の要諦である。CEOとして、最高責任者としての権限を持ち、それに相応しい資質と力量は校長の要件である。

校長は、若手の教職員や外部からの人材を積極的に活用すべきである。年功序列にとらわれず、新しい評価と任用方法を採用すべきときにきている。企業経営や組織運営おいて経営者に求められる専門知識やスキルを身につける校長が赴任する学校は、間違いなく個性のある学校となるだろう。

養護学校などは、2002年から新しい指導要領の導入やネットワークの接続を控えて、新しい学校経営を要求されている。特に個別の指導計画を個々の生徒に作成することにより、教育商品としての質の高いサービスの創造と提供が期待されている。校長には、教育成果と指導に責任を担う「アカウンタビリティ」の考え方が徹底されねばならない。

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参考

今後の地方教育行政のあり方について(中央教育審議会答申)
http://www.monbu.go.jp/singi/cyukyo/00000253/

(本稿は、1998年11月25日に京都市立高等学校発達遅滞教育研究会で講演したものをまとめたものである。)


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1999年1月4日更新