「思います」 日経新聞コラム-あすへの話題より 2002年2月20日
 
  内林政夫 (武田科学振興財団理事長)


 「○○さんをご紹介したいと思います。会を始めたいと思います。お礼を申しあげたいと思います」。どうして、いつごろから、こういうもってまわった表現がはびこってきたのだろうか。もしも英語で、「私はあなたに感謝すると思う」という礼をいったら、相手は目を白黒させるだろう。

 アメリカ人に日本語を教えている先生が「(私は将来)先生になりたいと思っています」という文章がどうしても理解できないというアメリカ人の学生がいたといっておられる。「なりたい」という願望と「思う」という心理状態を一緒にすると英語にならないと、その学生はいうとのことである。この「思う」という表現は、個人の考える積極的に主張するのを回避しようとする言語表現で、考えをもう一段階つつみこんだ形で間接的に表現するのが、相手に対してより配慮した表現になる、という言語学者がおられる。「思う」という表現は、その行動が個人の独断によるものではないことを周囲に暗に了解してもらおうとしているわけで、断定を避けた「日和見型」である、という。「思う」という表現は、自己主張を抑え、まわりをみまわして”皆さんもそう考えておられますから”と周囲を気にする、気を使う日本人(悪い)メンタリティーがそのままあらわれている。それを「日和見型」というのであろう。

 主張のはっきりしない、あいまいな、不愉快な自己表現だと「思う」のは筆者だけだろうか。それにしても、この「思う」感染症はその広がりがはなはだしい。テレビ番組の司会者などは、もうただただ「思う」、「思う」の連発である。いまや、ほとんどみなが言葉の最後に必ずといってよいほど「思う」を付けてしめくくる。本当にわずらわしく「思う」。「ご紹介します。開会いたします。お礼申しあげます」。どうです。このほうが、はるかにすっきりしていると「思い」ませんか。