教職課程における教育内容・方法の開発研究事業 文部科学省助成局助成 2001年度中間報告

英語  情報通信ネットワークを使って「コミュニケートできる英語」を養う指導法の開発

研究代表者
成田 滋

英語指導改善の起死回生策--「小学から耳学を中心とした一貫教育と「英語で学ぶ」授業を



兵庫教育大学カリキュラム開発研究会

成田研究室

naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp


この国の英語教育と文化を一つの事例から考える


 兵庫教育大学学校教育研究センター
 成田 滋 naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp


はじめに

 我が国の小学生や中学生が、英語圏の人と対面するときには、いくつかの特徴が観測される。第一は、会話そのものが単発で、あとが続かないことである。これには、英語の表現力の貧しさだけでなく、思考そのものの貧しさが原因しているふしがある。何を聞いたらよいか、何を知りたいのかがはっきりしないのである。話題をとらえて、それに関連する会話ができないのである。もう一つの特徴としては、表情がとかくぎこちなく、自信がなさそうなことである。恥じらいや困惑で目線はどこかへ移り、対話どころでなく、お互いに後ろめたい気持ちで別れることになる。

"How old are you?"


 小学生や中学生の英語圏の人々と対話する際の特徴は、もう少し具体的にいえば次のようなことになる。外国人と対面し、How do you do? How are you?などは口から出てきてもその後が続かない。その結果は、にこにこ笑って親愛の情を示そうとする。相手は、なぜ笑うのかが不思議でしかたがない。日本人の会話の中での微笑や笑いは、外国人の間ではよく話題にされる。どのような議論ではあれ、微笑では対話は成立しない。むしろ困惑、疑問、否定などの表情のほうが相手にはメッセージが伝わる。相手の気持ちを思んぱかり、微笑していれば相手を気持ち良くさせるなどというのは、全くの誤解である。こうした行為は相手には通じない考えるべきである。

 中学生には、How old are you? Did you marry? などと、端から見ていて赤面するような質問を女性に浴びせる者もある。中学生は、教室でこのような文章しか教えられていないのではないだろう、とかとさえ思いたくなる。異性間では、どのような話題が会話としてふさわしいのか、ふさわしくないかをきちんと教えられねばならない。小中学生の英語表現の貧しさからは、英米の文化を知らずして英語を教える教師の無能さや異文化理解の貧しさも伺える。

 会話は言葉だけではない。視線、表情、しぐさ、手足を使ってメッセージをいろいろ表現できるはずである。言葉のやりとでは、こうした体全体を通した表現方法も大事であることを学ばなければならない。なぜか英語は教えても表現方法やコミュニケーションの基本を教えないのが、わが国の英語教育である。かくして、中学、高校で英語を6年間学んでも、全く役に立たない英語を身につけることになる。

表現不足と文化

 日本人の英語がとかくぎこちなく、自信がなさそうなのは理由がある。最も重要な問題なのは、英語力の表現不足ではなく、われわれの文化が作用していることである。例として、日本人が英語を使うときの周りの反応、いわゆる「世間」というものが働いて、コミュニケーションをぎこちなくさせてしまう。これをもう少し具体的に考えてみよう。

 一般に日本人が英語を使うときは、周りに日本人がいないときに自由に使えるようである。同朋がいるとなんとなく外国語が使いにくい。それは、同朋から自分の語学力を知られてしまうことへの困惑である。周りに日本人がいるとき、とくに英語に堪能な同胞がいるとわかったときは、「内なる世間」を代表するという意識のせいか、その前で恥をかきたくないという心理が働く。そこで英語がぎこちなくなり、黙りこくなる。

 この「世間」には、英文法を教える学校教育という服装がまとわりついている。きちんとした英語ばかりを教え込まれているから、それからはずれないように気を付けなければならないという圧力である。「文法上間違っていないか」、「発音は正確か」など絶えず回りの同胞を気にしなければならない。

 このような「内なる世間」に加えて、「外なる世間」もプレッシャーとなってくる。もともと自国語でない英語を用いて、母国語として自由に使っている外なる世間で、恥をかきたくないという心理的な圧力である。恥ずかしがりや内気などが、会話のがぎこちなさを助長する。恥ずかしがりやとは、恥をかきたくないという心理である。恥をかきたくないという姿勢では、英語は上達しない。自分の言語でないから、間違えて当たり前なのだ、と開き直ることが大事である。

恥をかき汗をかくこと

 それでは、恥をかくこと」に平気となるには、なにが必要なのかを考えてみよう。恥からの自由ーshame-freeは小さいときから質問をすることを良しとする態度で子どもに接することである。英語などを学ぶ際には、この点はきわめて重要である。間違った単語や文法的におかしい表現を使っても、周りのものが冷やかしたり、にやにやしなことである。本人もそうした間違いを自分もしているのだ、と思えば寛容になれるはずである。「人前で笑われることが恥じであるとか、他人を笑うことをなんとも思わない無神経さを改める」のが英語の勉強で大切な態度である。

 自分の英語のつたなさに、自分のなかで適度に折り合いをつけ、慣れ、平気になり、幾分か開き直ることができれ気持ちが大分自由になり、英語も口から出てくるものである。自分の言葉でないのだから、間違うの当たり前だ、自分はなにかを主張したいために外国語を使うのだ、と言い聞かせればよいのである。英語教育を改革するには、以上のような「内なる世間」と「外なる世間」を意識化して、英語との対し方を考えることが重要である。

 わが国の英語教育は、完全な文章を教えることに傾きすぎている。生徒は、超難解で不自然な英語を大学受験という目的のためにしか学んでいない。このようなインセンティブでは、英語は好きにもなれないし、上達もしなし。しかして文法中心の授業になる。その結果は、つまらない面白くない授業になる。そのあげく、役に立たない英語を学ぶことになる。英語をきちんと聴けて話せないから、英語アレルギーになる。こうしてコミュニケーションできない人を再生産している。つまり、1人の英語使いを作るために、9人の英語嫌いと英語コンプレックスを生む結果になっている。

小学校の英語学習の例

 昨年のある新聞に「保護者も授業を企画」という記事があった。これは、川崎市内のある小学校の実践をとりあげた内容である。すなわち、新しい学習指導要領の総則では、総合学習で取り組む課題に「国際理解」を例示し、外国語会話などを行うときは、体験的な学習が行われるよう求めている。英語専門の教師のいない小学校の場合、ALTの活用が鍵を握るが、その人数はまだまだ不足している。そのため、自治体が英語講師を確保し、各学校に派遣しているところもある。

 そうした問題を、英語に堪能な保護者の助けをえることで乗り切っている。保護者は企画段階から授業に参加し、ALTがこられないときは、ボランティアの母親と教師のチームティーチングを組む。
 この学校の六年生の授業は、「英語でスキット−-マイタウン」である。ALTを招いての授業では、道案内をしたり、店で応対したり、子どもは寸劇形式で英語に触れている。話すときは、相手の目を見る、英語で学んだことは日本語の学習にも役立つ、帰国子女の多い学校では、子ども同士のトラブルを避けるために、コミュニケーション能力の育成が必要である。当初は国語教育がその中心であったが、やがて総合学習として英語に重点を移してきた。

 すばらしい英語力を持つ保護者がいるのだから、保護者に協力してもらったほうが子どもにプラスになる。毎月開かれる企画会では、授業にゲームをとりいれるなど様々なアイディアが保護者から提案され、教師の知恵袋となる。人材に恵まれているとはいえ、こうした学校の取り組みは、小学校の英語教育の1つの方向性を示している。また、地域のなかで学校が子どもを育てるというこれからの学校の姿も映し出していると思われる。

小学生からの英語教育に賛成

 最後に、奈良市に住む中学2年生からのメールを紹介する。

  僕は、関西の私立進学校に通っている中学2年生です。英語を小学校の時から教えることに賛成です。これからの社会を生きていく上で、英語が必要不可欠なのは間違いありません。以前TV番組で放送していたのですが、幼稚園では英語しか話さない決まりにして、家に帰ったら家族と普通に日本語で会話するシステムを取り入れた幼稚園と家庭では、子供達は完璧に英語と日本語を使い分け、使いこなしていました。そのレベルを、その番組では現役東大生と比べていましたが、実際に東大生を遙かに上回る英会話力を習得していました。

 このような教育方法は無理だとしても、小学校の科目に、遊んでるように楽しく学べる「英会話」のような授業の時間を増やせばいいと思います。英語を小さいときから自然に学ばせることは、マイナスにはならないと思います。算数や理科などは、幼年期の子供達にとっては高度な理解力が必要ですが、「言語」は違います。日本人は日本語という世界的にあまり使われていない言葉を使っているのだから、英語も学ばないと生きていけないと自覚させていくべきだと思います。

 今、中学生として英語を学んでいますが、この教え方も問題があると思います。日本語で英語の文法の説明をして、日本人の発音で英語を教えるというのは、世界に通用しない日本人を作るもとになっているのではないでしょうか。僕が通う学校の英会話の時間は結構楽しいものです。その時間話せる言語は英語のみ。友達同士で日本語の会話は出来ません。先生はアメリカ人で、日本語を喋ると怒られます。この様に、英会話を半義務化していけば、少しは英語力の向上につながると思います。