IMETS Vol.2 December, pp.68-71. 障害児教育にマルチメディアのすすめ 兵庫教育大学 成田 滋 はじめに  これまで学校などのコンピュータは、単体で使う場合がほとんどでした。しかし、ネットワー キングの生み出す価値が次第に理解されるにつれて、コンピュータが互いに接続されるようになっ てきました。これは、学校のコンピュータがネットワークに乗り入れることによって新しい「コ ミュニケーション」が生まれることを知ってきたからです。ここでいう「コミュニケーション」 とは単なるパソコン通信といった名詞ではなく、人と人との双方向的な関係のことをさします。 コミュニケーションはもちろんパソコン通信やLANなどでも行われますが、人と人との対話が、 音声や相手の表情を見ながら行われるように、電子的なメディアもテキストだけでなく、相手の 電子化された顔や声を目の前にしてできるようになってきました。より対面的になったともいえ ます。人はもともと相手の体の動き、顔の表情や声の抑揚、調子などを瞬間的に読みとって応答 しあいます。言葉で足りないところは、表情や目のかすかな動きなどで補います。人間のコミュ ニケーションは、もともと人の感覚器官を使うというマルチメディアそのものといえます。  このように考えてきますと、現在のパソコン通信などは、コミュニケーションのなかではきわ めて原始的な形態だと思います。なぜって印刷媒体が電子的に置き換わっただけだからです。そ れでも音がようやくでてくるのも出てきました。静止画も見られるようになって少しは楽しくなっ てきました。しかし、双方向手的な機能が少ないので、仕事以外の用途は別として普通の生活に はなかなか普及していません。 I. ネットワークと学校  このところインターネット上のWWW(World Wide Web)という情報検索システムが俄然注目 されています。これは、どこにいても誰もが情報の発信者となれる環境があるからです。私も自 分の研究室から24時間の情報発信をしています。  世界各地の美術館、博物館、テーマパークを探索できます。仮想旅行というわけです。元気が ないといわれた地場産業や伝統工芸などが、WWWを利用して古いものを価値を見直し、新しさ をそこに発見しようとして新しい魅力をアピールしてきています。これもマルチメディアやネッ トワーキングなどのテクノロジーで味付けできるお陰です。仮想現実といわれるバーチャリティ を利用して各地に売り込み観光客を呼び込むのです。商売以外にも地域の自然や歴史という資源 を丸ごと見せて客を呼び込むという「バーチュアル博物館」や「バーチュアル美術館」、「バー チュアルショッピングセンター」がでてきています。地域が人を集め元気がでてきていることは 良いことです。ここでのキーワードは「人の交流」です。人が集まることは活動が活発になり新 しい魅力がでてくるのです。静止画や音声が取り込めて発信したり受信出来るのです。  インターネット上では、現在音声をリアルタイムで送受信できるソフトウエアが誕生していき ています。このソフトウエアでは、記憶装置に音声データを収めることを必要とせず、オンライ ンでニュースや音楽を聴けることです。しかも通常の放送局とは異なり、データの蓄積が可能で あり、パソコンを使って好きな蓄積音声を好きな時に聞くことが出来る「ラジオ・オン・デマン ド」のサービスが可能なのです。このソフトウエアが普及すれば、現在の放送法や電気通信事業 法に触れないで、しかも特定の地域に限定されない「放送局」が実現できます。学校放送も変わ るかもしれません。  生徒同士が皆が見たり聞いたりすることができ、しかもそうした情報へのアクセスの頻度やど んな情報を入手したかの経緯をもみるネットワークが必要となってきます。多くの生徒がどんな 話題にアクセスしたかが、その情報の価値を決めると考えられます。つまり他の生徒の役に立っ たか、面白かったか、楽しかったか、またやりとりしたくなったかということが大事となるので す。生徒は自分の持っている情報が他の人に役立つと考えられる時点で、それを共有するという 体験ができるようになります。  確かにネットワークやコンピュータは、学習の環境を豊かにすると思われます。特にマルチメ ディアを教育に利用する環境はそうです。同時に、生徒はさまざまな事実に触れたり考えたりす る機会もなければなりません。いくら画面上で世界の名画を見ても、あるいはおいしそうな料理 を見ても鑑賞の段階で終わっています。実物を見たり食事をすることがないといけません。パイ ロットの訓練には、コックピットのシュミレーション訓練と、実際の訓練の両方が必要なそうで す。仮想の訓練だけでは実際の操縦には役立たないといわれています。仮想と現実の両方を設定 するのが教育の場ということなのです。 II. 教育はどうして社会的な変容に対応がおそいのか。  最近、パソコン上で原子力の積極的な意義を理解するための教材が無料で学校に配布されまし た。このソフトは、エネルギーを生み出す資源と都市の発展との関連を考えながら、公害への取 り組みなど問題を解決しながら原子力についての理解を深めようとするシュミレーション教材で す。しかし、この教材の内容について中央紙の一つが原子力のネガティブな側面が触れられてい ないと疑義をはさんでいました。そのためか、この教材を回収しようとした県もあります。教育 行政に地方自治がないためのと、文部省とかやマスコミの目を気にするから教育委員会や学校は おかしなことにピリピリするのです。原子力に光と陰があるのを教えるのは、教師の責任ではな いでしょうか。この教材をどのように使うかということから教師の資質が問われるのです。  こうした教材や教科書をうのみにして、生徒を指導しようとする教師の姿勢が実は問題なので す。指導要領という虎の巻があるために物事を考えない教師をいつのまにか多くなってしまいま した。こうした日常性のためでしょうか教師自身も柔軟な思考ができなくなっています。新しい 試みをすることが学校では困難になっているということをしばしばききます。「コンピュータを 使った指導などは非人間的だ、 子どもの教育は肌の触れ合いが必要だ」と思っている教師もたくさんいます。物事をあれかこれ かで判断して欲しくないのです。マルチメディア教材を使っているとうさん臭いと思う教師も必 要なのです。マルチメディア礼賛では困るのです。これまでの伝統的な指導方法は時代遅れであ るといった価値に関する従属的な捉え方はこれまた困るのです。 ○義務教育を考える  義務教育をわたしたちは、至極当たり前のものと思っています。誰一人疑問を抱く人はいない ようです。でも私は義務教育こそが今盛んに叩かれている公的規制の一つではないかと思います。 もっと規制を緩和してはいいのでないかと考えています。  義務教育というのは、だれがなんといっても半永久的に続くと考えられています。100年経っ ても変わらないのが義務教育だと思っている人がたくさんいます。変容しようとしまいと残るこ とが前提なのですから、変わりうるはずがないのです。変わっても極めて小さく根っこは全くお なじですから、しばらくするとどこが変わったのかわからないのです。公立学校は存続の心配が 少ないですから絶えず変革を求めようとする動機が生まれません。学校教育の大半は、公立学校 に依存していることも対応が遅い理由です。なにせ大鑑巨砲主義のような存在で、公立という名 の見てくれだけの組織です。中に一歩入りますと暖かみのない一直線の廊下が続く冷たい建物で す。  私立学校は社会の変容に敏感で、同時に対応が素早いと思います。これも公立学校や他の私立 学校との競争があるからです。私立学校というのは、なんらかの設立の動機があります。個人が 作るものには思想があります。公立学校というのは、年月という伝統があるだけで中身はないの です。  存続の心配のないこところに切磋琢磨という緊張がありません。教員の均質化と平等という不 平等がはびこっています。教員免許を持てば皆一律に昇給していきます。修士号を持っていても それが給与に反映していません。学位を必要としないという土壌が教育委員会にあります。「そ んなものを持ってこられたら管理しにくい」と思っているのです。能力主義、教育成果の重視、 適材適所などからは無縁の集団、それが公立学校というところです。 ○親はどうなっているか   教育においては、親の権利が無視され親は教師に従属しているのが実情です。これも学校や学 級が王国のような閉ざされた世界になっているからです。担任はまるで王様のようで、親の意見 に耳を傾けることもなく他の教師から自分の担当する生徒の指導についての意見を求めようとし ません。閉ざされた学級ですから情報開示もほとんどありません。誰しも教師の指導の成果が生 徒に現れているかどうかが気になるのですが、親は担任に自分の子どもの成長についてつっこん で聞けるような関係ができていません。双方に平等な契約関係がなく、親は教師に従属した不可 解な関係があるのです。  学校や学級が閉じられているから、いじめの得意な小ボスのような生徒がでてくるのです。他 の誰もそのクラスに関わろうとしません。誰がいじめられているかもわかりません。だから教師 もわかりません。教師は他の教師は学級とつながらなければなりません。現在、日本では沢山の 学校がインターネット上から学校の紹介を始めています。このように学校をネットワーク上で公 開すると外から問い合わせや意見が寄せられます。学校や学級が開かれていくと外からの刺激が 入ってきますから、教師も努力します。ネットワークやコンピュータの使い方も学ぶ機会に恵ま れます。情報の開示は親が長年求めていたことです。 III. 農村化型から情報化型へ  これまで学校は、三つの経緯をたどっています。農村化型、工業化型、情報化型の三段階です。 最初の二つはすでに経過してきました。農村社会や工業社会の建設に学校は十分貢献してきたと 考えられます。農村社会と工業社会への移行には幾多の国と国との争いがあり、教育は国策とし て大いにそれに荷担してきた歴史もあります。国をまとめるには教育が一番の力になりました。 学校は読み書きを教え、国民皆兵を目指して戦の目的をたたきこんできました。軍人として徴兵 するためです。農村はといえば、開拓や食糧増産のために人材を吸収し後方兵坦基地となりまし た。  工業化のためには労働力としての人材を育てることが学校に課せられました。大量生産のため の機械の操作、そして社会の分化と専門性が進行していきました。第二次産業がその中心です。 もちろん今も工業化社会は進行するのですが、現在は第三次産業が中心となりつつあります。学 校のそのために新たな役割を担いつつあります。「情報化時代に対応する」というスローガンが それです。  情報化型の学校は、ネットワーキングやコンピュータに代表される情報教育が中心になります。 情報が価値を生み出すことが理解されてきましたから、社会はその創造や収集や配布という作業 ができるような人材を教育に求めています。高度で複雑な知識を求められるとともに情報のやり とりを短時間にする必要がでてきました。そのため「国際化」という言葉があせるほどに情報の 流通は、国境や人種や時間を越えてきています。「教育の情報化」をスローガンを具体化するの が「マルチメディア&ネットワーク」です。  しかし、農村型と工業型の学校から情報化型の学校の創造という要請については、先進諸国に 比べて著しく立ち遅れるのが我が国の教育です。いまだに農村型と工業型の学校が続いていると いったほうがいいでしょう。黒板とテレビだけの教室がどこへいってもあります。パソコン通信 の回線をひくのも大変です。教科書があれば子どもの指導はできると信じる教師集団が学校にひ しめいています。教師の「ネットワーキングやインターネットが一体なんだ」という素朴な疑問 に答える教育が教育委員会にも大学にも求められています。 IV. テクノロジーで学校にルネサンスを  現在の学校、とりわけ公立学校は元気がまるでありません。生徒が減少しているにもかかわら ず、不思議と問題が多いのがその証拠です。いじめが起きているのは公立学校です。登校拒否児 が多いのが学校です。学業が遅れる生徒が多いのが公立学校です。その中には同族の教師という 集団があります。   障害児が学ぶ学校は地理的にも文化的にも孤立しています。情報障害という言葉が生まれてき ましたが、これは障害児にはそのままあてはまるのです。かれらは情報の恩恵を受けていないの です。自分で現実の世界を探索したり物事の理解に必要な体験学習などの機会が少ないのです。 ですから、ネットワークを使ってそうした限られた生活空間を補うのにネットワークは活躍する はずです。その代表はインターネット上のWWWのページにあるいろいろな視覚的、聴覚的な情 報でしょう。  新しい学校のルネンサンスがテクノロジによってもたらそうという切り口が必要です。「学校 活性化」のキーワードは生徒を集める「集客」ならぬ「集生徒」という積極性です。これができ るのは情報ネットワークを使った学校のボーダレス化です。  幸い1996年度の文部省の予算概算要求では、情報化への対応を目的とする様々な施策が盛り 込まれています。その特徴はなんといっても教育、学術、文化など幅広い分野にわたって、高度 情報通信網社会やマルチメディアの発展に対応する政策でしょう。具体的にいいますと、映像、 音声情報の有効な送信や利用手段として通信衛星を利用すること、光ファイバーやインターネッ トなどの通信ネットワークの整備などです。社会の動きを先取りしなければという姿勢がうかが われます。マルチメディアの発展に対応した文教施策の推進に関する懇談会もできましが、短時 間で具体策を答申してもらいたいものです。  学校教育においてマルチメディアやネットワークを活用した国際交流学習が来年度から進むこ とが期待されています。外国の姉妹提携校や日本人学校などとネットワークを使って交流しよう というのです。これは「マルチメディア国際交流研究指定校」と呼ばれます。さらに通信衛星や 光ファイバーを使った通信技術やCD-ROMなどを使った新しいソフトウエアなどを教員研修に活 用しようとしています。遠隔地の離島に所在する小・中学校と都市部の学校との接続も強調され ています。マルチメディアを支える人材の要請が急務となっています。心身障害児教育担当教員 の資質の向上と教育支援システムもこれに該当します。  人的資源に少し触れておきます。学校の活性化にマルチメディアやネットワーク関連企業の参 加が必要です。教育員会にも学校には活性化を促し、変容を生み出せる「知恵者」はいません。 外部の「血」と「智」を導入しなければマルチメディアやネットワークは一夜の花火に終わる心 配があります。プロジェクトを継続し定着させるためには、人的資源の再配置を学校に求めねば なりません。一つの方法は情報教育専任の教師、あるいは専門職をおくことです。現在の学校に はこうした専門性のある人材が最も要求されています。 ○マルチメディアと障害児教育  今や時代のキーワードはマルチメディアですが、その普及はコンピュータの小型、高性能、低 コスト化、通信ネットワークとの融合、CD-ROMなど外部記録媒体の発展などが理由です。です がマルチメディアの最大の特性は、利用者が双方向で使えるというその使い良さにあります。双 方向性とは、これまでのように利用者は情報の受け手として参加することだけでなく、情報を創 造して発信できるという点にあります。「教育の個性化と情報化」ということが言われますが、 障害児教育の原点である個々の生徒のニーズに応じた教育は、教育の個性化と全く軌を一にする ものです。障害児教育は、いまも地域社会や通常の学校から疎遠な存在となっています。陸(お か)の孤島ならばいっそうそうした学校の置かれた状況を強調するのです。戦後、核のアレルギー を無くするために原子力の平和利用をテコに研究を始めた経緯を思い出して下さい。毒には毒を 盛って制するという手法です。  マルチメディアとネットワークを使って、例えば「アジアの人々の暮らし」というテーマで学 習させるというアイディアが出てきます。教科書のページを開いてはとても障害児には理解させ ることができません。動物や自然や食べ物をとおして暮らしの学習をさせるのです。障害児の多 くは教科書の文章を読むのを苦手としています。「教師が呼んで上げればいいのではないか」と いう反論がでてきそうですが、生徒は教師の話を黙って聞いて理解できると考えるのは早計とい うものです。このような授業では、生徒は学習に参加していないのです。これが毎日のように続 いているのが障害児のいる学級の多くの姿なのです。  マルチメディア教材の特徴は、学習者が自然に活動に参加できる双方向性ですが、他にもあり ます。なんと言っても生徒が「おーつ」と叫ぶ綺麗な画像や好きな音楽で体が自然に動くような 雰囲気があることです。視覚と聴覚に訴えることによって、生徒には注意を喚起しモチベーショ ンを高めてやります。こうしてバーチュアルな世界をビジュアルに富んだ子どもたちに提供する 環境は、従来の教材には無かったことです。  マルチメディア教材の開発は、もはやプログラマーの独占ではなくなっています。障害児の特 性にあった使いやすいインターフェイスをデザインできるのがマルチメディア教材の特徴です。 どういうことかといいますと、子どもの身の回りの事柄を題材にしてシナリオを作り、それに基 づいて周りを取材し教材化するという過程です。これは子どもと教師の手でできるようになりま した。コンピュータの高性能化と小型化による携帯性、ツールの廉価性などが自作の教材開発を 容易にしています。最近では、障害児の顔や声がどんどん入ったものがみられるようになりまし た。親が「どうぞ出して結構です」といっています。これまでは学校の配慮とかで、子どもの顔 写真は出さないという不文律があったようですが、親がそれをつき崩しています。肖像権なるも のは親にあるのであって学校にはないはずなのです。障害を隠そうとする学校のそこつな態度が ネットワークとマルチメディア教材の出現で変わりつつあります。学校は、もはや教師が王様で ある王国ではなくなってきています。  冒頭で申し上げましたが、コミュニケーションのありようとは、もともとあらゆる感覚器官を 使うというマルチメディアそのものです。子ども相手の体の動き、顔の表情や声の抑揚、調子な どを読みとって応答しあいます。言葉で足りないところは、表情や目のかすかな動きなどで補い ます。手話を使う人は目、体、口の動きが活発であることに気がつきます。これは「トータル・ コミュニケーション」とわれます。マルチメディア利用の教育は、人の感性、理性、テクノロ ジー、教育理念、現実と仮想、触れあい、コミュニケーションなどなどすべてが融合する世界で す。これを「トータル・エジュケーション」といっておきましょう。これがテクノロジーによっ てもたらされる「学校のルネサンス」という姿かもしれません。