2000年8月14日
成田 滋 兵庫教育大学学校教育研究センター  
naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp

■まだ続くのか「養護学校におけるコンピュータ利用」の展望

 

 

                              

 
 「養護学校におけるコンピュータ利用の展望」という類の原稿は、10年前から研修や講演で盛んに依頼されるテーマである。これまでしたためてきた原稿を振り返りながら、本誌から依頼されたテーマをあれこれ考えつつ、現在の養護学校などでのコンピュータの活用状況が、かってとどのように違ってきたかを回顧してみる。

1. コンピュータと揶揄
 いろいろな研修会や講習会で筆者が好んで引用した言葉に、コンピュータの導入をさして「仏作って魂入れず」というのがある。この揶揄を盛んに使って校長や指導主事を困らせたことがある。また、「コンピュータ室はまるで霊安室だ」とか、ソフトのコピーが日常化している状況を「海賊行為の巣窟である学校」などと形容して、研修の座を白けさせたこともある。ときには、「導入したコンピュータは子どもが使える機器か?」というまともな問いを何度も投げかけた。また、今でもいわれる「コンピュータは道具である」という表現に疑義をはさんで、コンピュータをして「道具から脳みその一部に」というスローガンを盛んにぶったものである。つまり、コンピュータは子どもの思考を助けるものであり、ガイド役をしてくれるものというのである。

2. 予測と現実の乖離
 世の中には、さまざまな識者といわれる人々がいる。マスコミはこうした人々に好んで将来の予測をする。その中に、科学技術庁が1978年行った調査がある。これは、「情報技術の社会への広い応用についての予測」というもので、その中に「学校教育とCAI」というのがある。識者の予測によれば「1985年までにはCAIは小中学校に広く採用されている。」とあり、この予測を読んで首を傾げたくなった1990年の頃を想い起こす。

  1994年までに文部省は、全国の小中高校に34万台ものコンピュータを与えてきた。ところが、この導入は教員の希望でも親の要望でもなかったのである。学校は、コンピュータのお陰で、なにがしかの設備が良くなった。例えば、空調がコンピュータ室に入り、見学者には誇らしげに生徒のいないコンピュータ室に案内するという有様であった。教員は職員室でワープロソフトを公然とコピーし、生徒は月に2回か1回に冷房の効いたコンピュータ室で遊ぶという状況であった。やがてコンピュータは埃をかぶり産業廃棄物となった。だが、適切に廃棄されたかは不明である。

3. 「どの学校にもあるか?」
 学校のコンピュータが以上のような運命をたどったのには、理由がある。当時、教員が抱くコンピュータのイメージとしては、「固い、冷たい、難しい」というのがある。今では当たり前である絵文字(アイコン)ベースのファイル操作は少なく、難しいシステムに頼っていた。筆者らは、そうしたコンピュータに見切りをつけ、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)に富むコンピュータを養護教育にふさわしいということを主張した。また、個別の指導が障害児教育の基本であるから、「統一した機種を学校に導入するというのは、狂気の沙汰である」ということも叫んできた。

 だが、当時の教育委員会や指導主事は、機種の選定にあたっては「どの学校にもあるか?」「汎用性はあるか?」「機種は統一しているか?」などという生徒の指導とは無関係な要求によって、教員や親が望む機種を取り入れようとしなかった。我が国の養護学校のコンピュータ利用がかくまで遅れた最大の理由は、教員と親の意見を採り入れなかったことである。この反省は、やがて親の生徒情報の開示の請求や、個別の指導計画の導入と親の参加という世論の声につながっていく。

4. 管理職の無能と学校の活性化
 筆者の親しい友人である養護学校の若い校長に「この10年間、養護学校はなにが変わり、どこが良くなりましたか?」という問いを提起したことがある。この校長は養護学校に長く関わり、時代の変容に対して養護学校の変容を十分理解している人である。「今や学校のあり方が問われている時だ、教員の権利要求を主張している場合ではない。専門性,責任感や使命感が問われている。教員だから教員であるということでない。私達は,障害のある子供達の不便さによって給料を得ているものであることを忘れてはいけない。」と述懐している。

 多くの管理職は、教育現場が抱える課題を問題化しようとせず、つつがなく学校が運営できれば良いと思っている。学校の「問題」を「チャレンジ」であると理解すれば、改革への取り組みへと意欲をかきたてられるはずである。ネットワークにつながるコンピュータが学校にますます入ってくる今日、この情報技術の申し子をそっとコンピュータ室に眠らせるのではなく、指導を高める教材教具として、子ども同士のコミュニケーションを促進する力として、教員と教員、親と教員のコミュニケーションを活性化するものとして考えればよい。「学校を活性化するためには、情報技術は鍵である」という認識が管理職にないと養護教育は振興しない。

5. 情報技術のパラドックス
 本当に情報技術は我が国の養護学校の改革の原動力になるのか。一つの答えは、目下情報技術を取り入れて、学校教育の多様化や個に応じた指導を推進するアメリカにある。アメリカ経済では、情報技術の急速な普及が高成長と低インフレを達成せしめたという評価が定着している。学校も然り。ここで注目したいことは、情報技術を狭くとらえるならば、1995年頃までアメリカはすでにコンピュータの学校全般での利用ということは達成されている。教室にコンピュータは必ずあり、利用されてきた。

 しかし、「コンピュータが利用されるという状況はどこを見ても明らかだが、教育成果という統計はどこにもない」という疑問が識者から指摘されてきた。コンピュータが通信と融合する今日、しかも2000年度までにすべての教室をネットワーク化するという学校が、一体本当に生徒の学力の増進にコンピュータが貢献するのか、という問いを発しているのである。8月13日の新聞報道によれば、これからの学校には「IT教室」が設置されるという。「コンピュータ室」が単に名称が変わるということのないよう注意しなければならない。

6. 養護学校と情報技術  
  我が国で、ネットワークコンピュータが養護学校で利用され初めて5年が経つ。その間、顕著になった状況として、養護学校間における情報技術の利用の格差が大きくなっているいることである。これまで一線に並んでいてどんぐりの背比べのような学校が、次第に突出したり、落ち込み初めているのである。落ち込む学校というのは質が低下したのではなく、突出する学校からすれば、相対的に低く見えるということである。

 先駆的な学校は、「チャレンジ」する学校として、研究指定校やプロジェクトの実験校として研究費を獲得し、教員もまたそれによって触発されている。こうした学校には必ず情報技術のリーダーがおり、個人で研究助成を受ける者も増えている。

 コンピュータと通信の情報技術が学校により投下されるといっても、急激に教育界全体での指導内容の高度化や指導成果が期待できるとは限らない。新しい教科「情報」とそれに伴う教員養成、現職教員の校内研修、「情報活用の実践力」「情報の科学的な理解」「情報社会に参画する態度」の実践、校内ネットワークの活発な利用などの個々の学校での努力が必要である。養護学校全体を活性化するには、こうしたいわば「懐妊期間」を経なければならない。この準備を怠っていたずらにIT教室を設置しても、「仏作って魂入れず」の二の舞を踏むだけである。

7. 提案  
  コンピュータやネットワークの投下が早期に学校の活力をつけ、教育成果の目覚ましい延びにつながるとは限らない。冒頭で述べたように、我々にはコンピュータやCAI導入の苦い体験がある。しかし、アメリカの学校と同様に、我が国の養護学校も教育面では経済面と同じような効果を生む土壌は備わっている。

 今や、親は職場や地域で情報技術を利用している。平成12年度の通信白書によれば、世帯のネットワーク利用率は20%に達しようとしている。またパソコンを自宅に持つ者の60%がネットワークにつないでいる。こうした「親の情報リテラシーによる武装」はできあがりつつある。家庭は、学校とのネットワークを介したコミュニケーションが便利だということを体験できれば、その利用が加速する公算が大きい。

 以上の帰結としては、今後は遠隔教育と遠隔学習を養護教育などに応用できる可能性は十分に備わってきている。養護学校は、これまでのようなバス通学などによる時間の無駄と生徒の不便を改め、週4日制などを企画し、1日は子どもがネットワークなどを利用した「ホームスクール」や地域での「サテライト学校」を実験してみるのも面白い。学校は、教育相談、親と教員の研修、教材づくりと配信、家庭での端末接続のための訪問指導など、地域のセンターとして新たな役割を担うことを考える。

 そこで以下のような提案をする。管理職で情報技術に対応しきれない者は、他の事務職に配置転換する。現在の管理職は対外的に無権限過ぎる。そうした無能な管理職の代わりに、民間を含めて優れた能力のある若い人材を登用する。管理職の任期は、他校での職務を含めて4年とし、その後は教員に戻って生徒を指導する。教育委員会は、教育費のばらまき配分をやめ、「チャレンジ」精神が旺盛で研究熱心な学校に研究費を集中的に投資する。投資と費用の効果を評価するシステムも作り上げる。学校には、情報教育担当の教員を専任として学内措置で配置するのである。ネットワークコンピュータは、一カ所にかためないで、生徒の使い良さを考慮して各教室に分散する。情報教育担当と担任は、ティームで生徒の指導にあたることも当然である。 教員の専門性を行かし学部間を越えた指導の体制や適正な配置、教員の研修と免許の更新などは、筆者が10年前から叫んでいることである。  

8. 10年後の予測
 学校は時代の変容にあまりにも疎いために、今後の変化を予測するには不確実な要素が多い。情報技術で学校がさらなる発展を期するには、新しい学校管理や運営のシステムが必要である。我が国の高い教育の普及率や、指導内容や技術の蓄積、教員としての献身的姿勢に加えて、情報技術の活用が加速すれば、先進国で実現している教育の高度化は我が国でも達成できないはずがない。
 もし、学校行政の改革、人材の適正な配置、効果的な教育投資、規制の改革と競争的な環境が学校関係者によって断行されなければ、10年後の養護学校の発展に関する予測は、悲観的なものとならざるを得ない。

 

(本稿は、日本重複障害教育研究会の「養護学校の教育と展望」2000年10月号に掲載するものである。)