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成田 滋 兵庫教育大学
naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp
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I. メディアの歴史
II. 人間の思考とマルチメディア
III. コンピュータと情報教育の歴史
IV. 学校の現状
V. 情報教育の現状
VI. 情報教育の遠い目標
情報伝達の歴史はメディアの歴史でもある。そして20世紀はメディアの多様性に代表される世紀である。最も古い情報伝達の手段は、布や石、紙に書かれた媒体といえる。のろしをたいたり光を反射させたりして、簡単なメッセージを遠くへ伝えた時代もある。その後はラジオがその役割を担い、1950年代後半にはテレビへと引き継がれた。そして現在は情報通信機器によるネットワークがメディアの舞台に登場している。
21世紀へ向けて時間は経過している。間もなく百年単位のセンチュリーと共に、千年単位のミレニウム(千年紀: Millenium)を迎えようとしている。メディアの発展の歴史は、百年ごとと同時に千年単位で見ると興味ある事実が生まれてくる。千年紀は世界を大きく変えた歴史でもある。とりわけ情報に関しては、人間と世界を大きく転換させたのがこの千年であった。Life誌には、この千年の間に世界を変えた出来事の特集がある。
第一の世界を変えた最も大きな出来事は、1455年にグーテンベルグによって聖書が印刷されたことである。印刷機の発明は、それまでの手書きによる情報伝達を根本から変えることになった。当時聖書の教えは、聖職者から教会に集まってくる信徒にだけ伝達された。情報は教会が握っていたのである。教会に集まることが唯一の情報を得る機会であった。その後印刷と活字は、情報をめぐる人との思考と行動様式を変えることになる。
第二の世界を変えた出来事は、1492年のコロンブスのアメリカ到達である。アメリカ大陸の発見は、それまでのヨーロッパとアジアを中心とする政治や経済をさらに拡大し、やがて世界の中心としての市場となるアメリカの礎をつくる。とりわけアメリカの独立以降、世界はアメリカを中心に展開していくことなる。
第三は、1517年のマルチン・ルターの宗教改革運動である。この改革は、カトリック教会を頂点とする支配から、神と個人の関係を強調し信仰と恩寵が人間を救うという画期的な神学論を提起したことである。人間の自由を神から与えられ賜であるという見方をとり、カトリック教会の支配に反旗をひるがえすことになる。
第四は、1769年のワットによる蒸気機関の発明である。蒸気機関はそれまでの人力から生産から、機械を使った大量生産へと転換させる大きな力となる。産業革命もかくして起こった。1853年のペリー艦隊も蒸気船で我が国にやってくる。蒸気機関の発明は、我が国の近代化にとっても大きな出来事である。
第五は、1610年のガリレオの地動説である。地動説は、地球を中心とした世界観から、宇宙からみた地球や人間を考えるという人間の在り方に根本から変える契機となった。カトリック教会の権威を失墜させる大きな働きをしたことも忘れてはならない。
第六は、コッホによる結核菌の発見である。1882年のこの出来事は、人間の疾病や病気の予防などに大きな貢献をした。医学の発達はその後の人間の寿命にも多大な足跡を残すことになる。科学技術の進歩は、病の発見と治療によるところが大であるのは間違いない。
第七は、1100年頃に中国で火薬が使われ始めたことである。火薬兵器は戦争の様相を一変させるものとなる。やがては大量破壊兵器も作られ、世界の政治や経済にはかりしれない影響をもたらすことになる。火薬は同時に諸刃の剣である。平和的な利用にも使われてきたことは否めない。
第八は、アメリカの独立である。1776年のこの出来事は、豊かな天然資源や広大な農地の開拓、さらに世界中から集まる人的資源によって、世界の政治と経済の中心を築き上げることになる。19世紀末から世界の通貨はポンドからドルに変わる。イギリスの産業力をアメリカの産業力が圧倒的に凌駕するのも、この国の資本主義の発展に負うところが大きい。
第九は、ヒットラーが1933年に政権を握ったことである。それに続く第二次大戦の勃発は世界を動乱と混乱に陥れることになる。この大戦は、世界中の人々に未曾有の苦悩をもたらしたことはいうまでもない。
第十は、1117年頃の航海用羅針盤の出現である。羅針盤は大航海時代を可能にし、世界中の交易を促し、人と物の交流を大きく変えることになった。大航海は、それまでの白地図を塗り替え、商品経済を発展させる。14世紀のハンザ同盟、16世紀のプロテスタンチズム、18世紀の産業革命という歴史を爆発させてきた。
メディアの歴史は、世界と人間の歴史でもある。人間の所産が文化とするならば、すべての業が人間を幸せにしたということではない。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実もたくさんある。文化を生み出したメディアの発達は、諸刃の剣といえる。
メディアの歴史を中世に戻って振り返る。当時の社会はカトリック教会の支配によって成立っていた。人々は、教会で洗礼を受け、教育を受け、信仰生活を送った。教えは聖職によって耳から伝えられた。その教えは口から口へと伝達されたのである。日曜日の礼拝は、オルガンの響きとステンドグラスの厳かな雰囲気の中で、カトリックの教えを体全体でとらえるものであった。目と耳と体で教義をとらえるといういわば感覚に訴えるものであった。今でいうマルチメディアのさきがけといえよう。ただひとつ欠けていたのは、印刷媒体であった。
カトリック教会は、その保守性と自己保持体制のために内部から瓦解し始めることになる。そのあらわれが宗教改革である。ルターらが唱えた信仰の自由や万人聖職の考え方は、カトリック教会の支配に対する決別となった。宗教改革は、聖書を誰もが読み、祈り、行動することを強調した。人文主義ともいえる考え方である。聖書を個人が読むことによって、さまざまな解釈が許され、異なった意見を述べれるようになっていった。しかして、カトリック教会という集団から解放されて、個人による冷静な思考や客観的な判断が許されることになる。この移行は、印刷機械の利用による聖書の普及が伴って始めて可能となった。聖書を個人が所有することができたのである。活字文化の始まりとともに、文字情報が氾濫するようになり、それによって近代化社会が展開していく。
時代は絶えず過去の反省と回帰ということを繰り返している。近代的なものへの批判のひとつは、かってマクルーハンがいった文字メディアからテレビへの移行にみられる。文字中心の思考形態から、身体全体で感じる総合感覚的といえるものの出現である。特に1980年頃のピンクフロイドに代表されるような映像と音と光による表現は、若者の心を捉えることになる。いわばマルチメディア時代が到来したのである。
マルチメディアという情報伝達手段は、近代的な思考を越えるか?というテーゼが投げかけられる。近代的な思考とは、文字情報を主体とする人間の理性に基づく冷徹な思考のことである。いわば五感などの感性を遮断した思考形態といえる。しかし、人間のコミュニケーションは、もともとマルチであるために、マルチメディアの技術は人間のコミュニケーションの促進にとって一躍脚光を浴びることになる。とりわけデジタル技術の進展は、皮肉ではあるが、人の思考を体全体で行なうという中世の発想に回帰するかのような様相を呈している。
目次へコンピュータの歴史はきわめて短い。従って、情報教育そのものが黎明期にあるといっても良い。その短い歴史ではあるが、コンピュータ利用の教育と情報教育はつぎのような三つの変遷をたどって発展している。
1) 第一世代 言語とプログラミング
この世代は、高級言語の習得による複雑なプログラミングやハードウエアの設計などコンピュータの利用に必要な環境を整える時期といえる。コンピュータ処理は計算が中心で、大型計算機を使い、大量のデータ処理をおこうなうことが主たる作業であった。また、コンピュータのユーザ自身がプログラミングをせざるをえない時代である。やがて大型計算機からパーソナルなコンピュータへと移行する。
2) 第二世代 応用ソフトウエアの利用
この世代になると、さまざまな応用ソフトウエアが市場に出回り、ソフトウエア開発用のツールも普及する。したがって、個人が言語を習得しプログラミングする必要は薄れていく時代である。パーソナルなコンピュータが市場で急速に広まり、教材が作られて、それが個人や企業で盛んに使われることになる。自作教材も盛んに作られる。ネットワークも次第に広がっていく。
3) 第三世代 利用のデザインと方略と情報共有
この世代では、ユーザがどのような者を相手に、どのようにコンピュータを活用すれば最大の効果をあげることができるのか、またそのためには、情報をいかにして共有し活用するかということに力点が置かれる。授業を例にとれば、教師はどのような方略をたてて授業を組み立て、生徒の参加を促し、相互に学び合える環境を整えるか、テクノロジーを授業にどのように生かすかなどについての方略を立てるかが問われる。
学校は、一貫した伝統を保っている。その伝統とは、一度導入したシステムを継続するという姿勢である。社会には、時代の変化に対して変わることのない価値追求と時代に対応して変わりうる価値がある。学校の教師の力量にも、いつの時代にも普遍的に求められるものと、これからの時代に教員に求められる具体的な資質や能力がある。しかし、学校は前者のみを強調して、時代にいつも追いかけられている。
学校は、これまでガイデットシステム、つまり行政主導型という形で運営されてきた。それが草の根型とかグラスルーツシステムといったものに大きく変貌していくと考えられる。そのことを学校とその担い手である教師の立場から見れば、規制と保護という2つのファクターの中で護られてきた運営から、自由裁量と自己責任という2つのキーワードの中で自ら行動しなければならないことを意味する。
教師には、テクノロジーマインドが欠如している。それ故に、テクノロジーと人の関わりについて無理解であることも確かである。テクノロジーがこれほど社会のあらゆる面に浸透しているにも関わらず、依然としてこれを生徒の学習や指導に活用しようとはしない。教師は、絶えず文部省や県の教育委員会のコンピュータやネットワーク導入の行政に追随している。行政主導型であるために、ネットワークを例にとれば、一体これをどのように使ったらよいかで苦心している。まずはハードウエアを導入して、それから何をしたらよいかを考える、という行動様式が続いている。
教師も生徒も、自己の表現活動に冷淡で自らを主張するという動機がきわめて弱い。ネットワークの導入に関して、学校が冷淡なのはそのことに関連している。つまり、ネットワークは内部の組織だけでなく、外界との接触を急激に増やすきっかけとなる。学校は、いつも閉ざされたコミュニティであったために、情報の公開とか情報の開示といった体質を持たなかったのである。ネットワークは、自己を主張するものがないと参加できない。主張するものを共有するのがネットワークでもある。ネットワークは、閉ざされた学校の扉をこじ開けることにもつながる。学校はそれを恐れているふしがある。自己の表現についていえば、やれ名前や写真をどうするか、有害情報をどうして防ぐか、などをネットワークの導入以前に杞憂している。そのため、後ろ向きの姿勢が随所に見られる。大阪府の養護学校は、折角ネットワークとつなげたに関わらず、予算不足を理由に使用を凍結した。ネットワークの有効利用に消極的な体質を示すものである。
目次へ学校は、皮肉にも情報弱者のような様相を呈している。時代の進展から見れば「負け犬」となっている。変化に疎い、テクノロジーに疎い、情報に疎い、など疎いだらけである。その最たる理由は、学校行政の体質にある。機器の集中管理と校長のリーダーシップの欠如にそれが表れている。学校は教育委員会の管理権の下にあり、「自律性と自己責任、当事者能力」を問われない。国立教育研究所の調査によれば、「学校は自律性と自己責任、当事者能力が強化されるべきだ」との見方を否定した教育長は52%もいる。「学校は教育委員会の援助をあまり期待していない」との見方を否定したのは80%である。「各学校の自主的取り組みを尊重し、教育委員会は原則指導助言を控えたほうがよい」という見方を否定するのは73.5%もあった。ヒト、カネ、モノに関する多くの裁量権を学校に与えるという概念は教育委員会にはない。
学校の情報教育であるが、教育課程における情報教育の見直しが行われている。すなわち、「情報教育の協力者会議」の第一次報告によれば、これまでの情報活用能力を見直して、今後の初等中等教育段階における情報教育で育成すべき情報活用能力を次のように焦点化し、系統的、体系的な情報教育の目標として位置づけている。
(1) 情報活用の実践力
(2) 情報の科学的な理解
(3) 情報社会に参画する態度
以上のような見直しの観点は、まずこれまでコンピュータ操作を強調していたことからコンピュータを問題解決の道具としていること、コンピュータやネットワークの整備からそれらを活用することを強調していることなどが挙げられる。見直しは、情報活用の実践力をつけるということに集約される。
情報教育の推進に向けた取り組みはどのように考えられているだろうか。「情報教育の協力者会議」によれば次のような整備が必要とされている。
(1) ネットワークコンピュータの整備
学校内はネットワーク化し、学校図書館を「学習情報センター」にする。障害児教育においては、障害の種類や程度に応じて情報機器やソフトウエアを整備する。
(2) ネットワークの整備
インターネットへの接続を早期に実現する。各都道府県教育センターを教育用ネットワークの拠点として整備する。
(3) 教育用ソフトウエアの開発と整備
子どもの興味関心を引きだし、創造性や思考力を育成するソフトウエアを開発する。
(4) 指導体制の充実
情報化に対応した現職教員研修を体系化する。研修においては学校のリーダーを養成し校内研修の充実を図る。また学校においては校長のリーダーシップにより情報化に対応した校内体制をつくる。
(5) 学校を支援する体制の整備
各都道府県の教育事務所や教育センターに情報化推進コーディネータなどの支援する人材を配置する。
こうした国レベルの施策の方針は立派であるが、これを受ける教育委員会や学校がどこまで対応できるかははなはだ疑問である。学校は、生徒が教師が創造する情報を提供しようとしない。さらに、学校以外の他の情報を獲得して、学習や教授に活かす方法も知らない。情報教育の取り組みでキーとなるのは学校であるはずであるが、校長はじめ教員の情報教育への積極性がない現状にあって、「情報教育の協力者会議」の提言は画餅に終わる可能性が高い。たとえ、提言が実現したとしても実質が伴わないうわべだけの制度で終わる可能性もある。
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アメリカ連邦教育省やアメリカ航空宇宙局(NASA)、それにアップル社らが共同して研究しているグループが「生徒が習得すべきテクノロジー活用能力の一覧表」を公表している。これによると小学生から高校生まで習得上の指標を掲げ、すべての生徒はつぎのような事柄を習得し活用するための機会を得るべきであるとしている。
1. 基本操作と概念
2. 社会的、倫理的、人権的問題
3. 生産手段としてのテクノロジーツール
4. コミュニケーションのためのテクノロジーツール
5. 調査手段としてのテクノロジーツール
6. 問題解決と意思決定のためのテクノロジーツール
そして、高校3年生(12学年)の生徒が卒業にあたり、習得しておくべき重要な知識とは、次のようなことがあるとしている。
1. 現代のテクノロジー資源の限度をわきまえつつ、テクノロジーを使った生涯学習や職場での学習システムや教育サービスを評価できる。
2. テクノロジーシステムと資源、サービスの選択できる。
3. 職場や社会全体でのテクノロジーへの信頼感を育て、普及したテクノロジーの活用に関する長所や短所を分析できる。
4. 同僚間、家族間、社会間でのテクノロジーと情報の使用について合法的で倫理的な態度を涵養し、それを実行したり主張できる。
5. 個人的、職業的情報を扱い、コミュニケーションのためのテクノロジーのツールと資源を用 いることができる(例えば、財政、予定、住所、購買、通信)。
6. テクノロジーベースの選択や、遠隔教育や放送教育などの生涯学習を評価できる。
7. 協力、調査、発表、コミュニケーション、生産において、必要な場面で日常的にかつ能率的にオンライン情報の資源を用いることができる。
8. 学習内容に関する調査、情報分析、問題解決、決定のためにテクノロジーのツールを選びそれを応用できる。
9. 本当の世界の状況で専門的システム、知的行為者、シュミレーションで調べ、応用できる。
10. 情報を収集したり、組み立てながら情報を広めるモデルを作るために、テクノロジー内容に関わる知識ベースを構築し、同僚、専門家、その他関係者と協力できる。
以上のようなテクノロジー活用能力の指標や知識の一覧を目の当たりにするとき、我が国の学校が同じようなレベルの情報教育を提供し、生徒の活用能力を高めることができるかは、学校教育の現状からして悲観的にならざるをえない。
しかし、どのような国であれ、テクノロジの進展に伴って個々の人間形成や豊かな社会の進展を目指した情報教育は、一層の重要度が増している。その期待に応えるためには、情報教育実践はなにを目指すのか、教育効果が生徒にどのように表れているかなど、より厳密な評価が行わねばならない。情報教育は、刻一刻変わる時代と絶えず成長する生徒と指導する者との交互作用である。
この交互作用を支えるものが情報技術に対する理解とコミットメントである。これからの社会は、さまざまな分野において、情報通信ネットワークに深く支えられると考えられる。情報通信ネットワークの有効利用は、ネットワーク社会に生きる学習者のニーズとも符合すると考えられる。その中核として学校が現代的な機能を果たすことが期待されている。そして、そうした権能を付与されているのが、校長を始めとする教師である。教師の情報教育実践にかかわる資質能力が、教育効果に重要な意味を持つと言える。
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参考
生徒が習得すべきテクノロジー活用能力の一覧表 The National Educational
Technology Standards(NETS)
http://at21edu.edu.hyogo-u.ac.jp/~naohara/technology.html
情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議
http://www.monbu.go.jp/singi/chosa/
(本稿は、1998年7月6日に兵庫県立教育研修所で講義したものをまとめたものである。)
1999年1月4日更新