カリキュラム改革による教師の学際的な資質養成を
もともと教育関係者というのは、保守的な考え方に陥りやすいものであることは、我が国だけでなく諸外国でもしばしば指摘されることである。外国の教育関連立法や教育制度の実態を探ると、その改革に対する消極性は、日本が特に顕著ではないかと思われることがある。事実、教育基本法や施行規則が改正されたということは久しく聞かない。
筆者の専攻である障害児教育工学を例にとれば、アメリカの場合、「全障害児教育法」が1975年に発効して以来、少なくとも3回の大幅な修正と数回の追加や関連立法が成立している。おまけに「全障害児教育法」は、今では「個別障害者教育法」と改名されている。こうした法改正の根底にあるのは、法というものは常に新しい事態に即応するように姿を変えていくべきものであり、法の停滞はそのまま法についての消極的な評価につながるという考え方である。時代の変動が激しければ激しいほど、法への要請も強まるという欧米のコモン・ロー(common law)の考え方がそこにある。アメリカの司法界には、法を時代の要請に応じて「練り直し」続けていくことこそが法律家の主たる責任であるという考え方がある。
今や行政改革は時代の潮流のようであるが、実は、行政改革そのものは司法の改革ということである。この行政改革が遅々として進まない理由には、我が国には、コモン・ローのような時代に即応する法の考え方がないことによると考えられる。
II 改革が必要な課題
ひるがえって、大学にもいろいろな改革の波が押し寄せている。我が兵庫教育大学も少しづついろいろな改革が進んでいる。教官の自己点検や院生による授業評価なども始まっている。大学教育の心臓部は,なんといってもカリキュラムにあり、その点検作業が行われているのは望ましいことである。筆者らは、平成8年度にカリキュラム改革調査研究による研究費で「教員養成と現職教育における情報教育のカリキュラム改革」の調査研究を行った。そこで以下に、本学が直面するいくつかの課題を取り上げ、ついでカリキュラムの改革を視野におきながら、「情報コミュニケーション教育」の充実を提起する。
1. 院生について
多くの院生は,現職教員でありそれなりの理由で各地の教育委員会より推薦されてやってきている。しかし,中には,研究課題すら明確でない教員が多数いるのも事実である。このような院生に限って、教育委員会の優等生である場合が多い。将来の管理職を嘱望されているためか,教育への新しい考え方,新しい学力観,教育行政の改革などに対する関心は薄く,とにかくたくさんの授業を受けてたくさんの単位を取得することに忙殺されている。教育委員会は、こうした院生の姿勢をよしとするきらいがある。
修論に傾斜した研究に1年間をかける多くの院生も多い。修論は2か年の研究の集大成には違いないが,そのために、研究の仕方や論文の書き方をしっかりと学ぶべきである。日本語の表記すら不十分な院生もいる。レポートの書き方の基本を学んでいない院生の修論は,目を覆うほどである。データ分析の基本,関連情報の検索方法,さらにデスクトップ・パブリッシングなどの技法も学ぶべきである。
ネットワーク上での情報源を活用しない多くの院生もいる。大学での研究の特徴は,学内LANを使って内外の教育情報を活用したり,教官や他の院生とのコミュニケーションができることである。それを利用しないで,2年目はもっぱら自宅にこもって修論のワープロ作業に従事するというもったいない過ごし方をする。こうして、国際情報通信網であるインターネットを一度も利用したことのない修了生も出てくる。
2. 教官について
最近、ようやく本学でも院生による授業評価が行われるようになった。これは,教官にも院生にも望ましいことである。授業評価によって、お互いに教授と学習の間に緊張感が生まれ、授業内容や方法にも工夫がいる用になっている。しかし、教官の学生への指導評定が不明朗であることを院生は、ときどき指摘する。これは、レポートや試験の結果が院生に通知されないとか,指導評定の基準が曖昧であるからだと考えられる。
学内LANがほぼ完全に整備され、すべての教官に情報端末が貸与されているにもかかわらず、教官の多くがいまだにこの端末を使わないでいるという状況がある。そのため院生の中には、指導教官室などの端末が使えないために、他の講座や教官のところへでかけることも珍しくない。
3. カリキュラムについて
現在、本学にはカフェテリアのメニューのようなたくさんの科目が用意されている。院生は、その中から自分の研究領域に関連する科目を選択できるのは結構なことである。しかし、本学にある現状の各科目をカリキュラムの体系性という観点から考えてみた場合、例えば本格的に情報教育を学ぼうとする者には、不十分な体勢であることは否めない。院生の多くが、いまだに学内のネットワークを使えずに修了していくという現状が、なによりも情報教育の不十分さを物語っている。学生に対する情報教育の重要性や緊急性を喚起する一方で、学生の現代的なニーズに沿うカリキュラムを早急に構築しなければ、中央教育審議会の提案する21世紀の「ニュースクール」が要求する教師のパワーアップにたち遅れることが懸念される。
III 学際的な教師の資質養成
今世紀は工業化社会といわれるように、技術革新の時代として特色づけられる。しかし、今後人々は本格的に「高度情報通信社会」という新しい時代で生きることになる。情報革命の象徴といわれるインターネットは、21世紀には国民の大多数の中に広がるという技術予測もあり、脱工業化を目指す情報化社会は、人々に新しい考え方や生き方を要求してくると考えられる。
このような状況から、今や高度情報通信社会を支える人材の育成が、大学教育に強く求められている。そして、そこで育成される人材が教師となって次の世代の子どもたちを育てていく。教員養成や現職教員の研修において肝要なことは、急激に進展する時代に生きていく子どもにとって、どのような教育が必要かということである。具体的にいえば、子どもたちが情報通信ネットワークやコンピュータの力をいかに活用するかということである。こうした状況の中で、「ニュースクール」の構築が提案され、学校という教育機関でこの時代的要請に応えるのにふさわしい教師を養成することが求められている。
情報化社会の特徴は、科学技術が、人の思考や行動を変える可能性を秘めているということである。大学教育は、それにどのように対応するかが求められている。そうした状況から、さしあたり「情報コミュニケーション教育」とか情報教育が、本学でも体系的に始まるとすれば、人文社会科学と自然科学の双方を視野においた資質を有する教師教育を行うことができる。情報化時代が作り出す学校に関わる課題、例えば電子著作権、情報公開などなど、人文系や社会科学系だけの知識では解決できない状況が生まれてきている。理科系の専門知識がどうしても必要になっている。これからは経済や法律、文化の問題を理科系の知識なしでは解決が困難なことが多くなると予想される。逆に「技術屋さん」も同様に技術のことだけしかわからないようでは、先般の遺伝子研究が生みつつある「遺伝子環境の破壊」のような深刻な倫理的問題も多くなるだろう。「情報コミュニケーション教育」は、こうした新たな変化に対して、総合的な角度から問題の本質を究明できる能力を育成することをねらっている。
おわりに
新しい制度にもカリキュラムにも、望ましい面と望ましくない面が生じてくる。それが「エスタプリッシュメント」のもつ宿命である。エスタプリッシュメントのこうした本質を直視しつつ、過去のカリキュラムのマイナスに比べて、新しく構想するカリキュラムのプラスの方が少しでも多いときは、過去への執着から脱皮し、果敢に新しいカリキュラムを導入すべきと考える。大学は時代の流れに敏感に対応してゆくべきであり、社会の変革が激しいときには、カリキュラムの頻繁な改革が必要である。兵庫教育大学は、人文社会をさまざまな角度からとらえるために、科学技術の習得を強調する学際的な教員の育成機関となることが必要である。その意味でも、「情報コミュニケーション教育」を一つの柱とするカリキュラムの再構築が必要と考える。
(本稿は、兵庫教育大学教科教育学会主催シンポジュウム「教科教育におけるインターネット利用の可能性について」で課題提起をしたものに加筆したものである。)
参考文献
教員養成と現職教育における情報教育のカリキュラム改革(1997). 平成8年度カリキュラム改革調査研究報告書, 兵庫教育大学学校教育研究センター. .
Email:naritas@ceser.hyogo-u.ac.jp